この祭の起源は、天正年間(1570年代)。
戦国の武将・上杉謙信公が信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)を巣守神社(当時は守門神社)に祀り、戦勝祈願、五穀豊穣を願ったのが始まりです。
南魚沼郡大和町浦佐の裸押合大祭とともに越後の二大押合大祭と呼ばれています。
御神体は同じツバキの木で彫られており、栃堀は幹の根元の部分を、浦佐は上の部分を使ったといわれています。
下帯1本にわらじ履きの男衆が、30kgの大ローソクを先頭に本堂になだれこみ、「サンヨ!(撒与)サンヨ」「押ッセ!押ッセ!押ッセヤイ!」の掛け声とともに、ほてった身体をぶつけあいます。
押合いの最中に260枚の福札が天窓から撒かれ、それを奪い合う勇壮な祭りです。
また、ほてった体を冷ますため、境内にある湧き水に体ごと飛び込む姿は、祭りを一層盛り立てます。